映画「NO SOMOKING」公式サイト » HOSONO’S HISTORY

米兵からチョコレートもらう


夜寝る時、ほんとに戦後に生まれて良かった、つくづく嬉しかったんですよ。戦争に行かなくていいんだ、って。平和な時代に生まれた、っていうことをすごい噛みしめてて。戦争の傷跡はいっぱい残ってるわけですよ。隣の家が、まだ、焼けて無かったりとかね。そんな時代ですよ。3歳ぐらいかな、母親が寝んねこ半纏で僕をおんぶして、銀座に行くんですよ。目黒発白金台で乗って、日比谷まで行く都電があったんで。兵隊さんだらけですよ。近寄ってきて、母親に何か言ってる。米兵の2人が僕になんかくれたんですよ。たぶん、チョコレートでしょう。

母はモダンガール

母は音楽好きなのはたしかです。洋楽聴いてるし。ハイカラっていうか、当時はみんなそうでした。ピアノ習わせられていました。みんな家でSP盤をかけてね、78回転でグルグル回るでしょ。それを見てるだけでも面白いですよ。目が回るんで。好んで聴くようになったのが、ビッグバンドのブギウギで、最初は自分でかけられなくて、最初母にせがんで「sing sing sing」かな、太鼓のレコードって言ってた。太鼓のレコードかけてくれ、と。そのうち自分でかけるようになって。毎日それをやってましたね。

女系家族。秘書の叔母さん

うちは女系家族なんで、祖母の存在が一番大きかったね。ドカンと真ん中に座ってて。ヨッコラショって立ったりね。パラマウントの秘書をやってたなかなかの、キャリアウーマンの叔母がいて、その人が持ってくるパラマウント映画のサウンドトラックみたいな、SP盤ですけど。ボブ・ホープ、「Good Morning Mr.Echo」とかね、毎日のように、叔母の家に行って、聴いてたんですよ。

祖父はタイタニック号の生還者、
父はギャグを教えてくれた
母方の祖父はピアノの調律師

父は僕にギャグを全部教えてくれた人で、全部伝授してくれて。やってくれるから、面白くてしょうがなかった。時々、うわ言のようにね、ダンサーになりたかった、と。フレッド・アステアみたいな。

大瀧詠一との出会い「出来るな」、
松本隆との出会い「文学青年か」

小学校の6年ぐらいから、ヒットチャートに出てくる音楽が変わってきた。大ヒットしたのがベンチャーズですよ。同級生がエレキギター買うようになってね。1962年くらいからビーチボーイズが出てきたんですよ、コピーなんかしてました。
大学では音楽ばっかりやってました。バンドは、そんなに面白いもんじゃなかった。ただ、彼らの中で、プロデュース能力ってのがあって、人を集めちゃコンサートやったり、それがとても刺激的でね、大事な場だったんです。一番大きな出会いだな。いまだに付き合ってる連中だから。林立夫とか、鈴木茂とかね。ある日、僕の白金の家に、訪ねて来たんです。それが、大瀧詠一で。忘れられないんですよね、ステレオのとこに、僕が好きだったヤング・ブラッズの「get together」ってシングル盤を、ポンって何気なく置いといたの。大瀧くんが部屋に入って来るなり、挨拶もせずに、「おっ、get together」っていう反応したからね。すごい、と思って。出来るな、っていう。
自分は積極的な人間じゃないんで、ボーっと生きてるんで
すけど、でも、人が集まってくる、っていうかね。ある時、電話がかかってきて、それが松本隆でね。まだ慶応の学生ですよ。隙あると、文庫本読みだして、何読んでるんだろう。詩集だったりね。「あれっ、松本、文学青年か」。だんだん、そういう才能が分かってきた、っていう。

エイプリル・フールに参加。旅。
はっぴいえんど結成
「風街ろまん」「実験が完成した」

大瀧くんから、電話がかかって来て、「バッファロー分かった」って電話だったわけ。もう、それで十分なの。「あ、バンド入れよう」と思って。3人が集まり出して、とりあえず、何しようか?旅に出るんだよ、松本の車で、大瀧くんの故郷のほうまで、岩手県。レコーディングする、っていうことが、もう、夢のような作業ですよ。レコードに、育てられたような、人間たちだから。レコードが生んだ僕たち。1枚目は、訳分かんないままにやって。
1枚目のアルバムで、「はっぴいえんど」っていう曲を、歌詞を松本が作ったのかな。それ、バンドの名前にしよう、って言ったの僕ですね、たぶん。僕が車を運転してて、メンバーが乗ってて。はっぴいえんどにしよう、って言ったのは、車の中だった。車の中だと、いろんなアイデアが出てくる。
1枚目の不満足感っていうのは、ある種の原動力になるわけですよね。やり残してることが、いっぱいあるわけで。「風街ろまん」は、それをクリアした。歌を歌う場面で「声が出るようになった」。
ある種の実験ですから、日本語とウエストコーストのサウンドって組み合わせがね。セールスとか考えないで、有名になりたいとかも考えない。とにかく、作りたい。その実験の過程が進んで、はっぴいえんど、というプロジェクトは完成したんじゃないの、と。

奇跡のアメリカ録音、はっぴいえんど解散

アメリカでのレコーディングの収穫って、ものすごく大きくて。ヴァン・ダイク・パークスが現れたことですね。レコーディングが始まったら、何のことはない、素晴らしかったわけ。松本隆に、ハットは16ビートでやって、キックはステムでドン、ドンってやれ。そのビートで、ギター、ジャン・ジャンってやってけ、みたいな指示があって。非常に、積み重ねの、プロダクションだったね。そうやって組み立てたなんて、新鮮な発見だった。今度は、現れた人が、ローウェル・ジョージで。奇跡ですね、そんな経験は。

はじめての創作。
1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」

狭山のアメリカ村に1軒借りて、みんなで寝泊りして、仕事って感じじゃないよね。家賃が安くて、魅力的だったんですよね。それまで実家暮らしだったんで。住所不定無職みたいな。全部曲作るの初めてですからね。プレッシャー大きかったですよね。素人に毛が生えたようなもんですから、23,4歳ですよ。プレイヤー志向が強かったから、自分の世界を構築してく、っていうようなことは、まだ、よく分かんないですよね。「どうだ」って気持ちは、まったく無い。だからこの間リメイクした。

YMO結成 中国の楽団員の
テクノカットを見て「これだ!」

アルファレコード立ち上げの記者会見に列席してて、何にも決まってなかったんだけど、とっさにYellow Magic Orchestraっていうのが、ポンと頭に浮かんで、やります、って言っちゃった。何にも出来てないんだよ。メンバーもいないし。高橋幸宏に声をかけてみる、昔から知ってる仲間ですからね。彼は、サディスティックスっていうバンドをやってた最中ですけど、飛んで来たんですよね。矢のように。目がランランと輝いてて。その流れで、坂本龍一にも声かけたんですよね。スタジオでよくアレンジャーとして知ってたんです。彼は、嫌々ながら、やって来たんですけど。「僕を踏み台にして世界に出てくれ」って説得した。半信半疑の人がいるわけでしょ。なんか説得しなきゃいけない、って、プレゼンテーションですね。半分冗談ですけどね。
YMOは企画だし、うまく行かなかったら、辞めるしかない、っていう立場ですよ。でも、やりだしたら、やっぱり、遊びなんですよね。そしたら、上手くいく方向に、どんどん、サイコロが転がっていった。
3人でスタジオでテレビを観てたんですね。小澤征爾さんが、北京に行って、交響楽団を指揮するっていうんでニュースになってた、その中国の楽団員がね、今まで御法度だった曲を出来るようになった。喜びがね、すごい伝染してきて、イノセントな姿勢と魅力的な髪形が良くて、ニコニコってやって。テクノカットなんです。3人で「これだ!」。

「Rydeen」大ヒット、散開、
「この後は、自由にしていいんだよ」

僕たちがワールドツアーから帰ってきて、目の当たりにした現象でね。街を歩くと、少年が後をついて来たりとか、野球帽を被ってね。レコード会社は、次も「Rydeen」みたいに、って言う訳ですよね。おんなじことを繰り返すことは出来ないんで。その反発かなんか知らないけど、自分の中で、その、「BGM」っていう、非常にアヴァンギャルドなアルバムを作って、「これ子供たちが聴くんだぁ」と思って。
予想以上の渦巻きに巻き込まれて。音楽だけじゃなくて、カルチャー的に扱われたりして。サービス精神があるんで、いろんなことやっちゃうのね。でも、やりすぎて、ちょっと疲れちゃった。サカモトくんも僕も落ち込んで、幸宏は、教授と僕の間で右往左往して、疲れちゃったりして。気持ちはもう終わりに近づいていったんです。

松田聖子「天国のキッス」、
映画サウンドトラック「風の谷のナウシカ」

その後、歌謡曲をやりだして、またみんなで、こう、仲良くなった、この後は、自由にしていいんだよ、みたいな気持ちがあったんですよね。

YENレーベル、ノンスタンダード、「SFX」、
アンビエント、「銀河鉄道の夜」、
ワールドミュージック、エレクトロニカ、
マック・デマルコ

その時でしか、出来ない。昔の機材を揃えてね、やれば出来るんですけど。その時代に出来たことを精いっぱいやった、っていう成果は、いま聴いても、面白いんですよ。新鮮なんです。人がやったことを、踏襲して、飽き飽きしたことを自分たちがやったら、それは、いま聴けないですよ。苦労して作ったもの、ってのは、やっぱり、いま聴いても面白いですね。アイデア、手段も含めて、いろんな試行錯誤が詰まってるんで。
はっぴいえんどを知ってるアメリカ人は、ジム・オルークが初めてだった。マック・デマルコもジム・オルークとおんなじような感覚持ってる。普遍的に音楽を好きな人たち。

星野源くん「あとは、よろしく」

星野くんがSAKEROCKの時代から知ってますから。星野くんってのは、また違う、自分のスタイルを編み出して、今に至るんだけど。世代的に何か受け継がれてることはあるんだろう、と思って、横浜のチャイナタウンで、一緒にやった時に、MCで、「星野くん、あとはよろしく」って言ったんだ、口癖ですね「あとは、よろしく」って。

いま。ブギウギ。
「自由にふれると、心が躍る」

世界中の人たちの音楽の聴き方は、10年前とは違うな。どこの国だろうと、音楽好きはいい音楽を聴いてる。40年前の音楽も、いまのも、同時に全部聞いてくれている。楽しいことがやりたい、音楽好きがいてくれれば大丈夫。

ブギウギっていうスタイルがあって、オリジナルの40年代のレコーディング聴くと、いつ聴いても心が躍るんですよ。ワクワクする。今のバンドには何かが欠けてるんです。その欠けてるものは、僕は失くしたくないな、とても大事なものが入っている。その秘密は伝えられない。秘伝のたれ。それがないとつまらない。キーワードは、自由ですね。心が踊る。自由に触れると、心が躍る。